夢より素敵なこの一瞬 (C-cage EDIT.)
 ……ありえない、何もかもがありえない。

 「紀穂、いい加減機嫌を直しなさい」
 運転席から伸びてくる悠剛さまの手。そのしなやかな指先が私の髪を、頬を、滑るように伝う。
 いつもならそうされてしまうと、まるで猫か何かのように絶対服従態勢になってしまいそうになるのを、今日はぐっとこらえてその『誘い』に乗ったりするものか、と無言の抵抗を試みている。


 悠剛さまが強引な方だというのは嫌と言うほどわかっている、私はその強引さに惹かれているというのも否定できない。
 でも……いくらなんでもあそこまでされたら…


 全ての始まりは今朝。
 朝食を終え、着替えてあと10分もすれば通勤電車に乗る為に家を出ようとしていた、いつもと変わらない朝。
 珍しく、いや、私たちが出会って初めてこの時間帯に悠剛さまからの電話が来た。

 「やあ、おはよう紀穂。ちょっと今、外に出てこられるかな?」

 その声に導かれるように部屋の外に出ると、私の部屋が見える路地裏に、悠剛さまの車があった。運転席から手招きされ、あわてて駆け下りて車の助手席に滑り込む。

 「おはようございます、悠剛さま。朝からどうなさったのですか?」

 私たちが稽古場以外で会うとき、いつもなら、私を迎えに来るのは悠剛さまのおつきの方。悠剛さまが自分で運転して、しかもこんな時間にうちに来るなんて一体どういうことだろう
 そんな私の疑問を無視するがごとく、悠剛さまはたった一言、こう告げた。

 「紀穂、今からあるところに行くから、旅の支度をしておいで」

 ………は?
 今なんとおっしゃいました?旅の支度をしろ、と?
 予想外の言葉に何も言い返せない私に、

 「20分待つ。一泊できるように、支度をしておいで」

 だって今日は平日なのに?そして私は今からまさに出勤する所なのに??

 「で、でも私仕事が……」
 想定外、というのは今まさにこんな状況のことを言うのだろう。そんな私に駄目押しをするように、
「休みなさい」
と、あの、笑顔だけれど決して文句は言わせない、という態度で告げる悠剛さま。
「そんなのって!」
無理です、とは言わせないとばかりに悠剛さまが唇を重ねてきた。

 ……だめだ、こうされては逆らいたくても逆らえないじゃないか。

 裏通りとはいえ、出勤時間にあたるのでそこそこ人通りがある。車の横を通り過ぎる人々の視線が刺さるような気がしてならない。
 とりあえず悠剛さまとともに部屋に戻り、さてどうしたものか、と想っていたら、悠剛さまがどこかへ電話している。
「おはようございます、野坂紀穂の父親ですが、娘がいつもお世話になっております。娘は今日体調を崩しまして、大事をとって休ませることに致しますがよろしいでしょうか??」

 …こうして、私はあっという間に病人にされてしまい、悠剛さまの芝居がよほど上手かったのか、上司もあっさりと信用し、忙しいはずの週末・金曜日にもかかわらず有給休暇を獲得できてしまった…。

 唖然とする私に、
「じゃあ紀穂、さっき言ったように20分待つ。旅の支度をしなさい」
満面の笑みであっさりと告げられて、もう私には抵抗する理由も力も全くなくなってしまった。
 こうやって彼は、きっと周りの人間を支配し、虜にしていくのだ、時には鮮やか過ぎるほど強引な手口で…。

 ある街からの依頼で鷹月流の公演を打つ、というのは以前聞いたことがある。
 もちろん、私みたいな素人は参加できるはずもないから、自分には関係のないこと、ぐらいにしか思っていなかった。
 今日はその打ち合わせも兼ねて主催者側から一泊でご招待を受け、ひとりで行くぐらいなら、と悠剛さまは私に声をかけてくださった。

 今こうやって、二人で出かけられるといううれしさはもちろんあるけれど、なぜ佳子さまでなく私なのか。
 第一、旅館やらご招待くださった方になんと説明するつもりなのか…宿へ向かう道すがら、私はそんなことばかり考えていた。
 
 事前に聞いた話なら、私はきっと断っていただろう。
 私は、そんな立場の人間ではないのだから。
 私が、本当ならばこうやって悠剛さまと一緒にいることなど、許されないはずなのだから……。
 
 私がそんな複雑な思いにかられているうちに、街並みからビルや建物が少なくなってゆき、山道に差し掛かった頃、突然車が止まった。
「紀穂、降りて周りを見てごらん」
悠剛さまに促され、車を降りた私の目に映ったもの。

 飛び込んできたのは、どこを見渡しても見事なまでに鮮やかな、山肌に映える朱や黄色の群れ。
 まるで丹念に織り上げられた色帯のように重なる、だけど人の手では到底作り上げることのできない、自然の力が生み出す色彩。

 「…うわぁ、綺麗…悠剛さま、素敵な場所を知っていらっしゃるんですね…」
私は思わずつぶやいていた。
「うん、一度紀穂と一緒にここを訪ねたかったんだ。平日ならそんなに人がいないからね。…来て、良かっただろう??」
「…はい…」
 私を見つめる悠剛さまの優しい瞳。ずっと消えなかった心の中の曇りも、目の前の絶景が吹き飛ばしてくれたような気がしていた。

 いつまでもこの絶景を見ていたかったけれど、まもなく車は再び走り出し、ほどなく宿に到着した私たちは離れに通された。
 本館の建物も格調高く、いかにも老舗の温泉旅館という佇まいだけれども、この離れは旅館というよりは一軒の小さな古民家そのもの。
 とてもじゃないけど私が泊まれるような場所ではないと痛感する。こんなの、テレビの旅行番組でしか見たことがない。

 離れに通され、悠剛さまが宿帳に記帳するのをぼんやりと見ていた。
 筆文字も麗しく、悠剛さまがそこに書いたのは、「東条久彦」と言う名。
 そして宿帳の中では私は「東条」紀穂ということになっていた。
 どんなつもりで悠剛さまがわざわざ偽名を使うのかはわからない。でも、考えられるのはやはり「川村悠」と「野坂紀穂」だと何かと都合が悪いということに違いない。

 聞きたくても聞けない。偽名を使ってまで二人の関係を偽らなくてはならないということと、どうしてもひっかかる「東条久彦」と言う名前が。
 
 きっとこんなに長い時間二人ですごすことはないだろう、と諦めていたことがかなったのは素直にうれしく、このひとときが夢のように思える。でも、私たちの関係を考えると仕方のないこととは言え、やはり気持ちは沈んでしまう。
 もしもばれてしまえば全て終わってしまうことだとわかってはいても、この想いがけして許されることではないのだという現実を突きつけられているようで。

 そんな思いを知ってか知らずか、宿の人が一通りのことを終えて離れを出て行くと、悠剛さまがこう告げた。
「…さ、紀穂。せっかく来たんだから、一緒に湯でも浸かろうか」

 「……今から、ですか?」
 そりゃあ温泉地に来たのだから、至極当たり前のことに違いない、でも、まだお昼を過ぎたばかりで陽はずいぶんと高い。それよりも何よりも、一緒に…というか、明るい場所で肌を晒す、というのが何とも…
「もちろん。せっかく貸しきりの良い風呂があるんだから、一度だけじゃもったいないだろう??」
どこか楽しげに悠剛さまがつぶやきながら、私の手を引いて風呂場へ向かう。

 「…紀穂、もっと近くに来なさい」
 一緒にお湯に浸かったはいいけれど、なんだか近づくのもためらわれて、私は露天風呂の端っこに身体を沈める。
 もう何度も何度も悠剛さまと身体を重ねているはずなのに…昼日中から、いつもなら働いている時間帯にこうやって(しかもずる休みして)想い人と一緒にいる…なんだかとても悪いことをしているような気がしてまともに悠剛さまの顔さえも見られやしない。
 
 そうやっているうちにいつの間にか悠剛さまが近づいてきて、逃げる間もなくその腕の中に捉えられてしまった。
 見上げれば、雲ひとつなく澄んだ秋の青空。そこから目を移せば、山肌を染める紅葉、時折ひらりと舞い降りてくる紅葉…まるで一枚の絵のような風景の中に私たちは二人きり…もうその雰囲気だけで酔ってしまいそうな感覚に陥る。

 「……それにしても、残念だな。このにごったお湯じゃ、紀穂の身体をちゃんと見られないじゃないか」
身動きできない私を背後から抱きしめ、うなじに口付けながら悠剛さまが耳元で囁くものだから、もう私の身体はかっと熱くなり、動悸が治まらない。

 やがて、まともに歩けないほど上気してしまった私を、その細身の体のどこにそんな力が?と思わせるほど軽々と抱き上げ、部屋の中へと戻る悠剛さま。

 「ゆ、悠剛さま…せめて浴衣を着させてください…」
 「どうして?」
 
 私の懇願に今さら何を言うか、という顔をして悠剛さまが私をそっと床に横たえる。
 お湯で火照った身体に、肌にじかに触れる畳の感触が心地いい…なんてことを考える間もなく、悠剛さまが私に触れ、その身を私に重ねてくる。

 ……ありえない、何もかもが本当にありえない…

 まだお日様はあんな高い所で私たちを見下ろしているのに…そして何よりもこんな時間帯にこうやって肌を重ねていることも、これから過ごす、明日ここを発つまでの時間何が起こるんだろうという期待ももちろんあるけれど。
 それでも私は、悠剛さまの重みとこの身体に火をつけるがごとく繰り返される愛撫、その甘い感触に酔いしれながらも、ありえない、こんなこと何もかも…なんてことを心の中でつぶやくしかなかったのだった…。
From Satsuki
月華も早くも五作目です。
というか、他の話のプロットも脳内ではできつつあるんですが、
いざ書き始めるまでのエンジンのかかり具合が非常に悪いワタクシ(汗)

ちなみにこの物語、悠剛視点の別バージョンもございます。
この月華シリーズのファン第一号様、櫻さん(From『さくはぴ』)のサイトに
同タイトルの悠剛バージョンを置かせていただいてます。
話の流れは大体おなじですが、悠剛の『オレ様』っぷりと、この出来事における二人の受け止め方の違いなどをお楽しみいただければ幸いです。

それにしても櫻さんの、更新頻度の早さにはホントワタクシ感服いたしまする・・・
学園ものラブコメから、シリアススパイものまで様々なジャンルの恋愛小説がございますので、きっとお楽しみいただけるかと・・・

⇒櫻さんサイト『さくはぴ』 トップページはこちらから。
         
⇒『夢より素敵なこの一瞬』(さくはぴver)はこちらから。


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